善人たちの原理主義 -排他的な正義は社会正義の芽を摘む-

/ 11月 17, 2017/ 世界/日本社会情勢, 国際協力, 日本社会情勢

最近レビュー続きでしたが、今日は観念的なお話をしたいと思います。

 

このウェブサイトに何度か来てくれている方ならご存知かもしれませんが、私はここに併設する形で保護猫ブログも運営しています。

「動物愛護」をもっと多くの人が身近な問題として考えてくれるようになれば、との思いで、自分なりのアプローチでゆるい啓発活動のつもりでやっています。

そしてここでも5回にわたって「保護猫を迎える」と題した連載記事を書きました。

猫は大好きだし、毎年10万以上の猫が行政殺処分で命を奪われている現状は本当に呪わしい。

でも色々な制約の中で私にできることはあまりに限られていて、今の私にできるのは余力のある時にブログを書き、なごやかな話題の中で「保護猫」という存在を示し続けること。

これはたぶん動物愛護と呼ぶにはあまりにも取るに足りない行為ですが、私なりの社会正義の追求のための一歩のつもりです。

 

動物愛護に関わる人は数多く、様々です。

私が以前所属していたNGOは、犬の殺処分ゼロを掲げて何百頭分もの犬舎を建設し、大々的に保護・譲渡活動を行っていました。犬を、そして動物を愛するリーダーたちのもとで、犬関係の専門学校を卒業した若い専門家たちが日々の業務を回していました。まさにプロ集団でした。

しかしながら、動物愛護の世界でこういう大きな組織はとても珍しいと思います。

特に猫は繫殖力が高いため、行政殺処分の対象となって失われる命の数は、犬よりも圧倒的に猫が多いのが現実です。

途方もない数の猫を救うために、全国に無数にある地域のNPOや善意の個人が、動物愛護センター(保健所)に収容された猫を引き出したり、野良猫や多頭飼い崩壊の現場に遺棄された猫を保護したりして、里親を探す活動をしています。

国際協力の世界と通じる部分が多いですが、日本では社会正義実現のための活動は「心ある人たちがボランティア(無償)でするもの」といった認識が当然のことのようにまかり通っているように思います。

だから日本には寄付文化が醸成されないし、そのせいでNPOは育たないし、NGO職員はみんなボランティアだと思っている人が普通にいる。

社会正義が一部の心ある人たちの活動だけで実現できるなんて、そんな夢みたいな話はありません。社会が変わるにはもっと大きな意思の力が必要です。そして、プロの介入と主導が必要です。

国際協力の世界と比べて、動物愛護の世界には主導的存在たるプロ集団が少なすぎて、小さな団体や個人がめいめいの信念に基づいててんでばらばらに活動を展開しているように見えます。

そうした個人の中には、かなり急進的に正義を求める人もいるようです。

 

実はここ最近、わが家で2匹目の保護猫を迎えることを検討していて、前回と同じように里親募集サイトで保護猫の情報を見ていました。中に1匹、ほぼイメージ通りの猫がいたので、保護主にコンタクトし、丁寧にこちらの情報や保護猫ブログのことを伝えた上で、里親を申し出ました。

しかし、挨拶も何もなくぶっきらぼうに返ってきた返答は「保険所には行かれたのですか」というものでした。

質問の意図は即座にわかりました。保健所(今は動物愛護センターと呼びます)には明日にも殺処分されてしまう命があるのに、そうした命を救おうとせずなぜそのサイトに掲載されている猫(野良猫という情報でした)を迎えるのか、という意図だったのでしょう。

返答ぶりに戸惑いを覚えながらもこちらの事情や意図を丁寧に説明しましたが、その後の回答で「保健所で奥に隠されている人馴れしていない猫を引き取って、手をかけて育ててその様子をブログで発信するなどすれば共感も得られるでしょうが」と、根本的に私の啓発活動のあり方に疑問を呈され、当然ながら破談に終わりました。

里親サイトで器量のいい猫を物色して引き取る程度で動物愛護を語るな、と言われたように感じました。

この人が私に提案したことは、特別な努力と相当の自己犠牲を払わなければできないことでした。

最後まで名前も名乗らないままだったその人が、正義感からこういうことを言っていたのはわかります。

けれども、私は私の見てきたものに基づいて、私ができる範囲内で、私なりの戦略を描いて、私なりのアプローチで動物愛護に取り組んでいるつもりです。

本業は今も国際協力で長期出張もありますから、現実的に、人馴れしていない猫を引き取って面倒をみられるほどの余力はありません。同居人への負担も考えなければいけないし、車も持っていないので、そもそも愛護センターに行くのも大変な負担です。

そういう背景も私の考えも何も聞かずに、自身の正義感だけに従って批判めいた言葉を投げつけられたことは大変残念でしたし、動物愛護にまつわる色々なことに疑念を抱かざるを得ませんでした。

 

国際協力団体の広告は大きく2種類に分かれます。泣き顔の子どもなど、かわいそうな写真を使って同情を煽り、寄付を呼び掛ける戦略。それに対し、笑顔の子どもなど、明るいイメージの写真を使って賛同を呼びかける戦略。

動物愛護の啓発活動にも、同じように全く異なる戦略が存在しうると私は思います。

前者のように惨状を見せつけて訴えかけようとする手法を、私は選ばないのです。

私が訴えかけようとしているのは、ただの猫好き、ただのペット好き、ないしはただの流行好きの、動物愛護にも殺処分にも無関心な層です。

たとえば、殺処分寸前で命を救われて災害救助犬になった犬は一時大きな話題を呼び、本も出版されテレビでも取り上げられましたが、今残っているのはごく限られた数の熱烈な支援者です。多くの人は、話題性が絞んでいくとともに離れていき、しばらくすれば思い出すこともなくなるでしょう。

私はこの動きを間近で見ていたので、そういうドラマティックな”泣ける”話で本当に惹きつけられるのは、もともと動物愛護に一定の関心のある一握りの人々なのだ、と強く感じました。

そして、そういう一握りの”もともと心ある人々”の輪の中で如何に盛り上がろうとも、それは長い目で見ればその輪の外にはあまり波及せず、社会変革には繋がらないと思うのです。

 

もし動物愛護が自己犠牲や特別の努力を伴うものなら、それに関わることを選ぶのはごくごく一部の心ある人たちに限られてしまいます。

実際私は今回批判を受けたことで大きくモチベーションを削がれてしまいました。100%の正義を実行できないなら中途半端なことをするな、と言われたような気分になったのです。

私自身は子どもの頃から長毛猫に憧れがあったので、ようやく猫が飼える環境になった今、長毛猫を選びたいと思うのは自然な欲求で、それを我慢して愛護センターで消えゆく命を迎えるというのは、高尚すぎて私にはとてもできない。私は、自分が負担に思わない範囲でできることをしようとしてきただけなのです。

動物愛護のハードルがそこまで高くて、身近な努力を否定する排他的なものなら、私はもう立ち去りたいと思ってしまう。そして、どんな世界でも、こういう排他的な正義が幅を利かせるなら、それは私のように身近な努力で少しだけ貢献したいと思う多くの普通の人を遠ざけ、結果的に社会正義の芽を摘むことに繋がる。そう思わされた一件でした。

排他的で急進的な正義。違う言い方をすれば、善人たちの原理主義。

国際協力の世界で過ごしてきた私は、一方的な正義の押し付けは絶対に正義の実現に繋がらないということを知っています。

正義はもっと包摂的で、多様性に富み、誰もが自己犠牲なしに参加できる開かれた活動の場でなくてはならない。

”善人”がいつも善を成すとは限らない。

批判は受け止め、消化して軌道修正しながらも、私は私の信じることを続けます。

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