上野千鶴子さんの祝辞から考える-女性の価値、男性の特権
実に10カ月ぶりの更新は、東大入学式での上野千鶴子さんの祝辞についてです。
入学式当日から賛否を呼び、色々な人がコメントしたり考察したりしている祝辞。
東大発表の全文はこちらです。:平成31年度東京大学学部入学式 祝辞
「祝辞にふさわしくない」、「入学式で言うことか」と言う趣旨の批判が多いようでしたが、個人的には、今後の大学生活とその後の長い人生における自覚を促す、とても良い祝辞だと思いました。
数字を使った説明は一部よくわからない部分もありましたし、全ての主張に同意するわけではないですが、核にあるメッセージは「社会には至るところに不公正が存在するが、それは構造的に生み出され続けているものであって、あなたたちにはそれを自覚し、知の力で是正していってほしい」というようなところだと読みました。
このメッセージを批判する人はたぶんいないと思うので、批判している人は別の読み方をしているか、細かい部分に着目しているのだと思います。
一部で「祝辞なのに東大男子を非難している」「東大に合格できたのは努力の成果ではないと言っているのか?」というような批判を見ましたが、そういう指摘はどう見ても見当違いなので、上野千鶴子さんに対するバイアスが強すぎるのか、メッセージを読み違っている人も多いのかなと思います。正当な評価が下されないのは残念なことです。
全文を読んで私が一番強く共感したのは以下のくだりです。
…男性の価値と成績のよさは一致しているのに、女性の価値と成績のよさとのあいだには、ねじれがある…。女子は子どものときから「かわいい」ことを期待されます。ところで「かわいい」とはどんな価値でしょうか?愛される、選ばれる、守ってもらえる価値には、相手を絶対におびやかさないという保証が含まれています。
つまり、この社会において女性は「相手を絶対におびやかさない」という保証があってはじめて価値を認められる。これは社会に構造的に組み込まれた規範です。
これは私から見れば厳然と目の前に横たわる真理なのですが、男性は概してこの構造的規範について無自覚なようです。オックスフォード大学で修士課程にいた時、それをまざまざと見せつけられる出来事がありましたので、ここで紹介します。
その日は同じ大学の修士課程ないし博士課程に在籍する日本人で集まっていました。
女性は私を含む二人、男性は四人くらいだったかと記憶しています。
もう一人の女性は既婚者だったので、その方の結婚相手のことなどに話が及びました。
そういう文脈の中で、その女性がこう言いました。
「女性は男性より劣っていなければいけないの」
私は「まさしく!」と心の中でこれ以上無い賛同をしていたのですが、その場にいた男性はみんなポカーンとして、本当に何を言っているかわからないといった様子で「そんなことないですよ」というような反応をしました。
男性たちのその圧倒的な無自覚さに、私は「ここで私がこの女性に同調しても不毛な議論になるだけ」と思い、何も言えずに黙りこんでしまいました。
自分が常日頃抱いてきた思い(「女性は男性より劣っていなければならない」)を同じように抱えている女性がいることはとても嬉しかったけれど、知的水準の高い男性たちであっても、清々しいほどにこういう規範に自覚が無いという現実には絶望的なものを感じました。
社会が求める女性の価値は「相手を絶対におびやかさない」という保証を前提としている、という上野千鶴子さんの祝辞の一節は、私にこの一件を思い起こさせましたが、賛否の中でもこの一節を取り上げる人は少ないようで、この点についての議論が深まらないのは残念です。
祝辞についての記事をいくつか読みましたが、かなり読まれていて評価されているらしいものに、以下の通称「白饅頭」さんの記事があります。
上野千鶴子氏の東大スピーチ「納得と、それでも消えない疑問」 (御田寺 圭さん)
以下はこの記事の3頁からの引用です。
日本の女性のあいだで、いわゆる「上昇婚志向」が根強く残っていることは、社会学の領域でも指摘され議論の対象になっている。「自分よりも収入や学歴が高い相手をパートナーにしたい」、裏を返せば「自分より格下の男とは付き合いたくない」という志向が、とくに女性にとってはパートナーシップ形成に強い影響を与えている可能性があるのだ。
事情はエリート女性でも同様だ。エリートならばこそ「専業主夫」なんて選べない、と上野氏は言う。本当に東大女子が「モテない」のだとすれば、やはりパートナーに「東大と同等以上の学歴」や「高い知性」「社会的ステータス」などを求めるケースが多いからである蓋然性は高い。
社会学の領域でどういった議論がなされているのかは私は知りませんが、女性が自分より学歴や年収の高い男性を結婚相手に選ぶのは、単純な本人たちの選好ではなく、さきほどの規範に影響を受けているからではないのでしょうか。
男性から「結婚相手としての価値」、つまり女性としての価値を認められるには、女性は相手を絶対におびやかしてはならない。これが規範として女性側の意識にあるとすれば、結果的に、自分と同等かそれ以上の学歴ないし収入の男性を選ぶことになります。
女性が男性より劣っているためには、自分より優れている男性を選ぶしかないのです。「上昇婚志向」はこの結果であって、女性たちの意識の問題ではなく、つまるところ女性の価値に関する構造的な規範の問題なのです。こういったものは本人らの意識だけで変えられるような生易しいものではありません。
じっさい私の肉親はむかし、私が当時交際していた非大卒の男性について、「あの子(私のこと)は○○大学を出ているのに」という趣旨のことを、私のいないところでこぼしていました。家族に祝福される結婚をしたかった私には重い一言でした。結局その男性とはその後別れましたが、親のこの態度が意識的ないし無意識的に影響した可能性は否定しません。
記事に戻って、著者の御田寺さんは、2013年の上野千鶴子さんのインタビュー記事(女を使えない企業が、世界で戦えますか?上野千鶴子先生に聞く、日本企業と女の今 4頁)から以下の発言を引用して、今回の祝辞との矛盾を指摘しています。
エリート女の泣きどころは、エリート男しか愛せないってこと(笑)。男性評論家はよく、エリート女は家事労働してくれるハウスハスバンドを選べなんて簡単に言うけど、現実的じゃない。
上野さんがどういう意味合いで「愛せない」と言ったのかは元記事からもわかりませんが、結婚は双方が相手を選ばなければ成立しないわけですから、「自分を選んでくれる男性の中からしか選べない」という前提を足してみると、見え方が変わります。
祝辞の「愛される、選ばれる、守ってもらえる価値には、相手を絶対におびやかさないという保証が含まれています」という部分から、結局のところ男性の側が「自分を絶対におびやかさない」女性しか選ばない、ないし愛さないのだとすれば、エリート女性を選ぶ男性はその女性以上のエリート男性に絞られるということになりますから、「エリート女は家事労働してくれるハウスハスバンドを選べなんて簡単に言うけど、現実的じゃない」という過去の発言と今回の祝辞の内容は、どこも矛盾しないように思います。
つまるところ、この記事を書いた男性も、「女性は男性をおびやかしてはならない」という構造的規範に無自覚であるがゆえに、上野さんの発言を読み違っているのではないかと感じました。
念のため書いておきますが、この方の主張を全面的に批判する意図は有りません。この方が記事で書いている「やさしさを装った疎外」という概念は重要な視点だと思いますし、一読に値する記事ですが、ただ上記の点については私には読み違いに見えるという意見です。
祝辞で注目されている箇所の一つは、以下の部分です。
がんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと…たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。
これは一言で言えば「自分がある種の特権階級であるを自覚しろ」ということでしょう。特権を持っている人は往々にしてそのことに無自覚です。
私は上野さんの「女性=弱者」という考え方には同調しない(というかそもそも「弱者」という表現が嫌なので一切使わない)のですが、男性=特権階級だとは思っています。
東大生がしばしば環境という特権に無自覚(これは御田寺さんの記事でも指摘されています)なのと同じように、男性は男性だけが持っている特権、そして男性が構造を介して女性に強いていることについて無自覚です。その一つが「女性は男性より劣っているべき」という規範なのです。
無自覚な特権階級に自覚を促すのは難しいものです。そのためには自分がどうやっても経験できない「特権無し」の人の視点を想像しなければならないわけですが、特権を持たない人の悲痛な声を聴くだけでは、想像を膨らませるには不十分なようです。
その点では、私は女性に生まれてよかったと思います。実際に一つの分類において被抑圧層(「弱者」と呼ばれる層)に属することで、人種、階級、宗教などその他の色々な分類に則って行われる抑圧に想像を巡らせることができます。
それ以外に女性に生まれて良かったと思うことは今のところありません。
この先なにか見つかればいいと願うばかりです。