入籍時の改姓について-世界観の衝突

/ 12月 14, 2017/ 世界/日本社会情勢, 働き方, 日本社会情勢

またしても長く更新に間が空いてしまいました。

この間色々ありましたが、筆者は兼ねてから同棲していた方と結婚しました。

一部の人への配慮から結果は書けないのですが、夫と私のどちらの姓を名乗るかでひと悶着ありました。

これから入籍する人々のために、周囲からの色々な反応を中心として、状況を少し記録しておこうと思います。

 

まず大前提として、当人二人の間では、私の姓(妻の姓)を名乗ることで納得していました。私が泣き落としをしたわけでもなければ、特に感情的に訴えたつもりもないです。

そもそも感情的な理由でこのように提案したわけではないのです。ただそれが合理的な判断だと思ったので今の夫に伝えたところ、夫本人はすんなり受け入れてくれました。

合理的と判断するに至った理由はいくつかありますが、要は「どちらか一方が改姓しなければならない」という状況で、世間一般でまかり通っている「男性側の姓を残すべき」という慣習というか社会規範みたいなものを取り払った時に、そこにある全ての現実的な要素が私の姓を選ぶことを支持していた、と少なくとも私には見えました。

ちなみに入籍時に女性側の姓を採用する夫婦は全体の4%だそうです。初婚同士だと更に低く、3%になるようです。僅かずつではありますが、これでも徐々に増加傾向にあるようです。

これを聞いてどう思うかは人それぞれでしょうが、この情報をもって「だから男性の姓を取るべき」という主張をすることはできないと思っています。その主張が通るとしたら、それは当人らが無批判に「多数派でありたい」と思っているという前提が成り立つ時だけでしょう。

幸か不幸か私にも夫にもそういう意識はありません。

 

けれども、特に上の世代にはこういう考え方自体が受け入れられないことが多いようです。

私の職場では、私が近々結婚することは周知の事実でしたが、結婚したら私の名字が変わると誰もが思っていました。

私の姓を取る案について話した時も、職場のある50代の男性に「なんで彼(今の夫)が名前を変える必要があるの?」と聞かれました。

私にしてみれば、そっくりそのまま「ではなぜ私が名前を変える必要があるのですか?」と聞きたいところでしたが、この発言には価値観というか世界観の違いがくっきり現れていると思いました。

この男性は、発言からに見るに「(余程特殊な理由がない限り)女性側が名前を変えるもの」と思っているのでしょう。

そして、この男性が結婚した当時(30年くらい前)には、たぶんそれが当然のこととして広く受け入れられていたのでしょう。

でも、時と共に変わるものはありますよね。

 

私は1987年生まれで、86年に施行された男女雇用機会均等法以前の日本社会を知りません。

「男女平等」は私にとって当然のことで、それが実現されないのは不正義でしかありません。

私は幼稚園から大学院までずっと共学の機関に通っていましたので、教育の場で男女を別々に分けることの狙いも効果もよくわかりません。

それは職場であっても同じです。管理職が男性のみで構成されていて事務職員が女性だけで構成されているような組織を見ると、意思決定の妥当性に疑問を覚えます。

ちょうど1年前に日本に帰ってきて、久しぶりに日本だけで完結した組織で仕事をし始めましたが、日本とはこんなにも「男性であること」と「年長であること」がものを言う社会だったのか、とひしひしと感じています。

年長であることは職務年数が長いこととある程度同義ですが、職務年数の長さは経験の豊富さを必ずしも意味しません。

男性であることは、外務省のように「性犯罪の多い地域に女性を派遣しない」といった規定だか慣例だかを持った組織では、選択の幅が多いという意味で有利になり、結果的に経験できる職務の幅も増しますが、そういった制約のない知的労働の職場に限れば、特に何も意味しないように思います。

男性でなく年長でもない今の私にとって、この社会はとても抑圧的です。

 

高校の頃、1年間の任期で英語を教えに来ていたアメリカ人の20~30代男性が、離任の際に全校生徒と全教員の前で言ったことを今もよく覚えています。

「着任して初めてこの体育館の檀上に上がった時、衝撃を受けました。男子生徒が前に、女子生徒が後ろに、男女分かれて座っている光景にです。」

当時私の通っていた高校では、クラス毎にまず男子をあいうえお順で並ばせ、全ての男子の後ろに女子をあいうえお順で並ばせていたのです。

このアメリカ人男性の発言のあった次の年度から、男女混合であいうえお順に並ぶことに変わりました。

彼の発言がきっかけだったのかは知りませんが、すぐに変えてしまって差し支えないルールだった、ということに違いありません。

 

守るべき伝統というものはあります。それは和歌や工芸のように、時間の経過にかかわらず、伝承するための市民的な努力によって残り続けるもののはずです。

男性優位や年長優位に見られる家父長主義的規範は、私にとっては伝統ではありません。

それは慣習と呼べるかもしれませんし、或いは因習と呼ぶ人もいるでしょう。

もっと極端に言ってしまえば、それは年長男性が代々継承してきた利権の構造です。

年長男性が、そして将来年長男性となる全ての男性が、この構造を維持したいと願うとしても、それは当然です。これは何の理性的な根拠も求めず、自動的に彼らを優位に置いてくれる構造なのですから。

だから、この構造を壊せるのはきっと女性です。

私は男性と肩を並べて高等教育を受け、男性と肩を並べて、時には男性を指導しながら働き、一時的かもしれませんが今は世帯主として夫婦の家計を支えています。そして夫は理性的で柔軟です。

これだけの条件が揃っていながら、結婚に際して「女性側が姓を変えるもの」という慣習に私が無批判に屈してしまえば、私は二度と女性として声を上げることはできないだろうと思いました。

 

結果的に対峙しなければならなかったのは、世界観の衝突でした。

我々の世界観では何の規範的価値もない慣習を、逸脱してはならない常識のように捉える人もいるのだということです。

夫婦別姓という選択肢があれば、こんな衝突に対峙しなければならない夫婦はきっとずいぶん減るのでしょう。

人生の大きな選択にあたって、大切な人々と理解し合えないことは本当に悲しいです。

規範として確立された慣習に代わる新たな世界観が受け入れられるには時間がかかります。

その間に苦悩する人が最小限で済むように、まずは、今のように誰かが一方的に何かを諦めなければならない制度が早急に変わることを願います。

 

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