守られるべきもの 南スーダン危機5年目へ
2013年12月15日、一部兵士による反乱に端を発する南スーダン危機が勃発。
2011年7月に独立したばかりの世界で一番新しい国は、突如として人道危機の渦中へと陥りました。
以来、大統領派と元副大統領派の対立が続き、幾度となく停戦合意が結ばれては破棄され、無辜の市民が殺戮や性暴力、誘拐といった危険に晒されています。今や南スーダンは、アフリカ最多の難民を生み出す国となってしまいました。
UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)によれば、南スーダン国民の1/3が家を追われ、200万人が難民として近隣国へ逃れています。南スーダン難民の数は今後1年の間に300万に達することも懸念されており、状況は一向に改善の兆しを見せていません。
(参照:UNHCR’s Grandi appeals for urgent action as South Sudan crisis enters fifth year)
このようにして、2017年12月15日、南スーダン危機は5年目に突入しました。
筆者は2015年に2度、南スーダンの首都ジュバを訪れました。
当時の所属団体が、ジュバで国内避難民への支援を行っていたためです。
ジュバにはもともと国連PKO(平和維持軍)部隊の基地がありましたが、内紛が勃発し、異なる民族を支持基盤とする大統領派と副大統領派が戦闘を始めると、PKO部隊の保護を求めて基地に南スーダン市民が殺到したのです。
こうして、PKO基地の内部に即席の国内避難民キャンプが出来上がったのです。
私は中東・アフリカ地域で10以上の難民/国内避難民キャンプを訪れましたが、南スーダンのPKO基地は、自分で見た中で最も人が密集したキャンプだったように思います。
もともと避難民キャンプとして計画的に開設されたわけではないので、それも当然といえば当然です。
国民投票を経て南スーダンが独立してからわずか2年数か月。人々はある日突然家を追われ、着の身着のまま避難することを強いられたのです。
私が所属していた団体も、当時南スーダン国内に日本人職員を配置していたので、この時のことはよく覚えています。
帰国した同僚から、兵隊の居並ぶ道路を自ら運転して国連関係者らの集まる場所へ逃げ、緊急退避用のフライトで脱出した体験談を聞いた時は、一夜にして状況が一変しうる危うさに戦慄しました。
そして残念ながら、同僚が南スーダンから緊急退避したのはこの時が最初で最後ではありませんでした。
日本でも大きく報道されたとおり、2016年7月に再び戦闘が激化し、チャーター機で日本人が隣国ケニアへ退避しました。この時退避した中にも、同じ所属団体の同僚が1人入っていました。この時は結果的にJICA(国際協力機構)がチャーター機を手配しましたが、自衛隊機を飛ばすかどうかで議論が交わされていました。
人道支援に携わる人間に安全対策は必須のことですので、私もそれなりの訓練を受けてはいましたが、自分自身がもしその時南スーダンにいたら、果たして冷静な対応ができていたのか、正直あまり自信がありません。
このように不安定な情勢でしたから、ジュバでの避難民支援には通常の人道支援とは違った難しさがありました。
外務省による渡航制限のために日本人が現地へ入れないことが続き、更に、もともと擁していた現地職員もほとんどが散り散りに逃げてしまったため、現地での運営体制が覚束なかったのです。
2015年に入った頃にようやく日本人の渡航が条件付きで認められるようになりましたが、先述した2016年7月以降、再び渡航制限がかかるようになりました。
その間に少しずつ積み重ねていた活動の成果とそれに基づいた支援計画も、混乱の中で大きく揺さぶられてしまいました。
2016年7月には、外国人支援関係者らが襲撃の標的にされる事態も発生しました。私はあとになってその際の記録を読みましたが、その時感じたのが憤りだったのかやるせなさだったのか、うまく言葉にできません。それはあまりに凄惨で非道で、疑う余地のない正義すら挫く卑劣な行為でした。
この事件は外国人が被害に遭ったためにある程度大きく報道されましたが、南スーダンの市民が日常的にこういった非道な行いに直面しているかと思うと、その想像を絶する過酷さに胸が詰まります。
私は運よくこうした事態に巻き込まれることはありませんでしたが、人道支援コミュニティの一員としてこのような状況を目の当たりにし、その上で色々な制約の中で支援をできるだけ円滑に続けていかなければならず、人道支援は喜びに満ちた仕事だったとはとても言えません。
このような場では正義が挫かれ、正当性は妥協され、私たちの行く手はいつも誰かの私利私欲に阻まれます。
それでも活動を続けていく力を与えてくれるのは、支援対象である人々の笑顔でした。
特に子どもたちは、外国人を見つけると周りに群がり、はにかみながらこちらを見つめます。
南スーダンの子どもたちは特に好奇心旺盛で、写真を撮られるのが大好きでした。
カメラを出すと競ってカメラの前に回り込み、思い思いにポーズを取ったり、自慢の手製おもちゃを誇らしげにかざしたりしながら、弾けるような笑顔を見せてくれます。
子どもたちが笑っていれば周りの大人も笑います。
恥ずかしそうにおずおずしている子どもでも、こちらが笑いかければ瞬時に笑顔を返してくれます。
特に、支援現場になかなか入れない状況では、ごく限られた機会にしかできないこのような心の交流だけが、私を駆り立てる報いでした。
私が当時の所属団体から、そして人道支援から離れてもうすぐ1年になります。
今の南スーダンに関して私が語れることは何もありません。
それでも、この国が今も危機の最中にあり、人々をとりまく状況が少しも改善していないばかりか、更に多くの人々が故郷を離れて暮らさざるを得ない状況にあることに対して、私なりに何かを発信しなければいけないと感じました。
この記事で使用したのは、どれも私がジュバにあるPKO基地内の避難民キャンプで2015年5月に撮影した写真です。
厳しい暮らしの中にあっても、子どもたちはこんな風に笑うのです。
そして私たちは、どうやってもこの笑顔を守らなければなりません。
子どもたちがいつでも笑っていられる世界を維持していくことが、この世界の全ての大人たちの責任であろうと、私は強く自分を戒めているのです。
この記事を読んだあなたが同じように感じてくれれば、それに勝る喜びはありません。