アフリカで国際協力に携わるということ -無邪気な不遜さと対峙する-

/ 4月 14, 2017/ 世界/日本社会情勢, 国際協力

このページにアクセスしてくださったあなたがどういった関心でここにたどり着き、そしてあなたがどういうバックグランドを持つ人であるのか私にはわかりませんが、まずはご訪問ありがとうございます。

定期的に更新を、と思いつつも、開設の挨拶を除いて実質的に初回投稿にあたる今回、どういった内容の記事を書くのがよいか自分なりに考えていたら、開設から時間が経ってしまいました。

ここで伝えたいことは文字通り数えきれないほどあるのですが、自己紹介も兼ねて、昔も今も私が苦悩し続けているもやもやした感覚についてお話しすることにしました。

アフリカで国際協力に携わる時、必ず対峙しなければならない「無邪気な不遜さ」についての思いです。

 

私は大学卒業後ほどなくして国際協力の世界に飛び込みました。途中、大学院に通っていた期間やその準備期間を除いても、かれこれ6年ほど国際協力を生業としてきたことになります。

国際協力業界は意外と広く、日本国内だけに目を向けても、一般に広く知られている青年海外協力隊や外務省・JICA・在外公館など公的機関のほか、民間コンサルタント会社、NGO、教育・研究機関、一般企業、協力隊以外のボランティア有志など、数えだせばきりがない多様な人々が各々の活動を行っています。これに加え、もちろん国連も大きなアクターです。

私が現在までに直接携わったのは、民間企業、公的機関、NGO、教育機関の4つですが、出張などで事業対象国に赴けば、そこには必ず他の活動主体もいますし、この業界の人々はたいてい誰もが私のように色々な組織で国際協力経験を積んできているので、結果的に私自身が所属したことのない主体がどのように活動をしているのかも、ある程度把握できるようになります。

そんな多様な国際協力アクターですが、ほぼ全ての人が、何らかの形で「無邪気な不遜さ」を持っていると私は感じるのです。

そしてそれは、当然私自身の中にもあります。形や大きさを変えつつはありますが、それは確かに今も存在します。

私が実感として初めて自分の中のそれに気づいたのは、西アフリカの大国ナイジェリアで1年ほどの駐在を経験したのち、英国の大学院でアフリカ研究の修士課程に進学したころでした。

私がナイジェリアに住んでいたということもあって、私はナイジェリア出身のクラスメイトと仲良くなりました。彼と色々な議論や雑談をする中で、私は自分の発言ないしは言葉にする前の考えに心底ぞっとすることがありました。

彼との対話の中で、自分の中に無意識に根付いていた「アフリカ」への差別意識、あるいはその裏返しである根拠のない優越感に気付かされたのです。

大学生の頃の私は「世界を変えたい」とか夢想するタイプの正義感漲る若者でした。その正義感が結果的に私を国際協力の世界に導いたのですが、何を隠そう、この一方的な正義感の根っこには、醜い差別意識と優越感が横たわっていたということです。

でもその醜い意識は、私も気付かない間に無意識に育まれたものでした。否定する人もいるでしょうが、私は、基本的に日本人はアフリカに対して無意識に差別意識を持っていると思っています。つまり、それはたぶん個々人の意思や思考とは関係なく、社会によって構造的に植え付けられるものなのです。

このような差別に基づく優越感、言い換えれば不遜さが、私のように「アフリカの人々を助けたい」という形で表出する場合もあるし、別の形で表出することもあると思います。

いずれにしてもそこにあるのは悪意ではなく、主観的ではあれ、善意ないし正義感なのだと思います。

だから私はこれを「無邪気な不遜さ」と呼びます。

私は今現在も自分の内にあるこの不遜さに苦しめられます。

いくらその不遜さを自覚し、それを打ち壊そう、あるいは知識と思考の力で押し込めようと意識しても、自分の発言、思考、無意識の行動の影に、うっかりその不遜さが顔を出しているのではないかと、空恐ろしくなるのです。それが、私が携わる事業の当事者であるアフリカの人々を知らず知らずのうちに不快にしたり貶めたりしてはいないかと。

今の私は、もう世界を変えたいなんて大それたことは夢にも思っていませんが、アフリカで国際協力に携わる者として、無邪気な不遜さに対する自戒の念を持ち続けることは不可欠であると考えています。

これは個人的な経験からくる主観的な思いなので、国際協力の世界で活動する誰もがこうあるべき、などと思っているわけではもちろんないのですが、それでも、無邪気な不遜さを誇らしげに掲げる人に出会うと、もどかしい、居心地の悪い思いはします。

今も存在するのかはわからないけれど、井戸掘りなどのボランティア活動を組み込んだツアーが一昔前に流行っていましたが、その時たぶん大学生だった私は(つまり私自身もまだ自分の内にある不遜さに気付いていなかったわけですが)、この類のツアーに不快な違和感を感じていました。

現在の私の視点でその時の違和感を思い返せば、それが無邪気な不遜さの典型的な表れに見えたから不快に感じていたのだろうと思えます。

国際協力を生業とすることは、ある意味では、常に自己ないし他者の中の「無邪気な不遜さ」と対峙し続けることでもあります。

これは私の強い信念なのでこれからここで書く記事に幾度となく表れてくるでしょうが、私は国際協力は善意でできるものではなく、高度な技量や人的資質を求められるプロフェッショナルの世界だと認識しています。そしてプロフェッショナルをプロフェッショナルたらしめる人的資質の一つは、無邪気な不遜さを自覚したのちに、それを超越する謙虚かつ客観的な意識付けであると思います。

 

(この記事で使用した写真は全て筆者が2016年にウガンダで撮影したものです。)

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