アフリカに関するステレオタイプ(後編)-開発と援助の混同-

/ 4月 20, 2017/ アフリカ情報, 世界/日本社会情勢, 日本社会情勢

この記事はアフリカに関するステレオタイプ(前編)-統計が覆い隠す現実-の続きです。

前編冒頭で触れた開発関連の実務家や私の友人が言うように、なんらかの統計上でアフリカ人が知能で他の人種に劣ったとして、それは何を意味するのでしょう?

まずは、統計の取り方に問題があります。
例えば英語で試験を行ったのであれば、当然英語力の高い人の結果が良くなる。言語の問題を取り除けたとして、受けてきた教育のレベルが反映される。教育のあまり関係ない、知恵を問うような問題だったとして、我々が真理と信じるものを世界中の人間が真理と信じているかはわからない。
西洋的世界観を前提とする試験を受けさせているとすれば、それは、違う真理の元で生きる人々に試験の作成者の真理を押し付けていることに他ならないのです。
彼らは彼らの真理が唯一無二の真理だと考えているわけですが、実際、アフリカには非科学的(=非西洋的)世界観を真理として信じる人もいるのです。
彼らの世界で共有されている真実を、外部の人間が真実でないと言えるでしょうか。
それが非科学的だから?では科学が真実だとなぜ言い切れるのでしょう。

歴史的に、科学はいつも西洋に搾取されてきました。
捻じ曲げられた「科学的」根拠によって、黒人は人類の中で最も動物に近い人種とされました。
このようなバイアスが今はなくなったと言えるでしょうか。
私にはそうは思えません。人種差別は今も世界中で生きています。

要するに、世界統一基準による普遍的な統計というものにそもそも無理があるということ。
それから、先に例を挙げて詳述した、統計というものの性格、すなわち、例外やニュアンスを無視し、現実から離れがちで、あくまで全体の傾向しか語らないこと。
黒人が傾向として他の人種に知能で劣るとして、それが何だというのでしょうか?
統計上は目に見えなくとも、大多数の日本人や白人よりも優秀な黒人もいます。まさに私の良きナイジェリア出身の友人のように。私は彼に匹敵するほど頭が良く教養のある日本人を多くは知りません。
であれば、統計結果を遺伝子レベルの相違という議論には昇華できないはず。

黒人の知能が云々という主張がどういった研究によって引き出されたのか、データの取り方を見てみなければなんとも言えませんが、どこかに欠陥があるのは明白です。

よく勘違いされがちですが、私は人道主義者とか博愛主義者ではありません。どこへ行っても基本的に施しはしませんし、完全な能力主義、実力主義です。援助や慈善事業も、それ自体には興味はありません。

アフリカの開発に関心があると言うと、しばしば援助に関心があると誤解されます。
あるとき、卒業後はアフリカの開発に携わりたいと言ったのですが、「援助ということですね」と切り返されました。
そう言った彼は米国人でしたが、似たような感覚を持っている日本人はたくさんいます。
アフリカの開発に携わるということは、すなわち援助に携わることでしょうか?
援助というと上下関係を含意します。持てる者が持たざる者を助ける。大義は美しいですが、基本的に援助のレトリックは欺瞞だと思っています。
ODA(政府開発援助:日本政府がJICA等を通して発展途上国向けに行う公式の支援事業)は大部分が日本企業に利益誘導されるようにできていますし、欧米の財団等による大規模な慈善事業は税金対策+パフォーマンスが主な目的でしょう。
(裕福になれば善行を施したくなるのかもしれませんが、私は経験がないのでわかりません。)

アフリカにも有能な人間が多くいます。(もちろんそうでない人間もいますが。)
彼らの能力こそがアフリカの持てる最大の資源だと、能力至上主義者として私は思います。
海外からの援助や欧米人の慈善家に頼らずとも、彼らの手で彼らの国の未来を築いていけるはずです。
外部の人間は彼らの話に耳を傾けなければなりません。
紋切り型の援助は時として無益を通り越して有害にさえなります。
アフリカの未来に責任を持つのは援助機関ではありません、アフリカの次世代の人間です。彼らを正当に評価し、彼らの意見を聞き、彼らと対等な立場で何ができるか考えること。それが外部の人間にできる最善の策だと思います。

この文章を書いたのは2013年の6月、ほぼ4年前です。

残念ながら、この時から今に至るまでの4年の間では、偏見の重みも、援助のあり方も、まったく変わっていないように思います。

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