アフリカに関するステレオタイプ(前編)-統計が覆い隠す現実-

/ 4月 20, 2017/ アフリカ情報, 世界/日本社会情勢, 日本社会情勢

これは2013年6月、私が英国の大学院に通っていたころ、修士論文を書き終えたタイミングで執筆した文章に一部修正を加えたものです。(写真もなく文字数が多いので2回の投稿に分けています。)

アフリカに対しては日本で、そして世界で、かなり偏ったステレオタイプ的な見方がまかり通っています。アフリカ出身の友人たちと一緒にアフリカについて学んだ個人的な経験に基づき、私はそれを正面から批判します。

大学院進学前に日本で働いていた時分、お世話になった開発関連の実務家の方から、何かの研究結果として、
「アフリカ人は統計的に他の人種に知能が劣る」なんて話を聞かされました。
同じように、黒人はIQで他の人種に大きく劣るという話を友人に聞かされました。
その時は、そうなんですか、としか言えませんでした。

その後私は世界最高峰の大学院のアフリカ研究科で8ヶ月を過ごし、おそらくクラスで一番成績のよかったナイジェリア人の親友のような優秀なアフリカ出身者を何人も間近で見ました。
その上でもしまた同じような話を聞かされたら、何の迷いもなく言えます。

「それを信じるのはあなたがアフリカの人を知らないからです。」

日本人にも知性、教養にばらつきがあるように、アフリカの人々にもばらつきがあります。
私が大学院で共に過ごしたのは間違いなく学問的能力において最上位を占める人々でしょう。
一方で、日本では考えにくいですが、初等教育を数年しか受けていない人々もアフリカには多くいます。
それこそ日本のテレビにたびたび登場するような所謂「未開部族」とか、辺境に住んでいてろくな教育も受けていない人々を、何もしなくても9年間の義務教育+大部分が高校教育、大学教育を受けられる日本人と比較することにどれくらい意味があるでしょう?それも、どこぞの先進国の研究者が作り出したであろう先進国的基準に則って。

私は統計が好きではありません。
物事をカテゴリーに分けるのも好きではありません。
統計やカテゴリーは全てを完璧に説明することなどできないからです。
何事にも例外があって、捉えきれない微妙なニュアンスがあるのに、全てをなんとなく知的な学術用語で説明しようとする、その行為そのものに傲慢を感じます。

たとえば、よく貧困民に関わる研究で”coping strategy”という言葉が出てきます。
これは、貧困の中で暮らす人々が、日々どのように貧困に対処しているか、そして貧困の度合いが何らかの外的要因によって増した場合にどのような行動をとるか、という、一言で言うと彼らの「貧困への対処戦略」を指しています。
私はこれは非常に学界的で、現実から切り離された言葉だと思います。
察するに合理的選択論を前提とした、人間味のない理論です。

想像してください。
エチオピアのとある農村に、赤貧に苦しむ夫婦と、幼い4人の子供がいたとします。ある年、雨季に十分な雨が降らず、彼らの生活を支える農作物がまるで不作でした。彼らは生存のため、持てる財産の何かをお金に買えて食物を調達しなければなりません。
貧しい彼らの財産はわずかです。猫の額ほどの痩せた農地。鶏が数羽。ヤギが数匹。そして美しい2人の娘と活発な2人の息子。

この中の何をお金に変えるのか?
これを予測できる理論があるでしょうか?
統計上は可能でしょう。統計上有意と見なされる数の聞き取り調査を行えば答えが出ます。
でも100%の調査対象者が同じ答えをするとは思えません。

さらに、実際何かを売らなければならない状況に陥ったとき、その時々の固有の外的要因が存在し、それが彼らの意思決定に影響します。
例えば、たまたま彼らの村を裕福な子供のいない夫婦が訪れていたとします。
彼らはこの貧しい夫婦の息子の一人をいたく気に入り、ヤギ1000頭分に匹敵する高額で買い取ると言います。
本来ならヤギを売る気だった夫妻ですが、この申し出に心が揺れます。
幼子を他に3人抱え、明日の食べ物もままならない生活。
この裕福な夫妻の元でなら、息子もきっと不自由なく暮らしていける。
人身売買は人道に反するとか、そんな議論は通用しません。
この選択が彼ら家族の生死を分けます。

彼らは息子を手放すのではないでしょうか?
少なくともこの状況下ではそれが合理的選択です。

シミュレーション又は過去の経験に基づく統計は、このような予期せぬ外的要因を尽く排除します。
ゆえに、理論としてしか価値がなく、現実に広く適用できるかはわからないのです。
このような現実から切り離された理論を生み出すのが統計、カテゴリー分けです。
後編へ続く)

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