私の見たナイジェリア -10月1日ナイジェリア独立記念日によせて-

/ 10月 1, 2017/ アフリカ情報, 世界/日本社会情勢, 国際協力

皆様お久しぶりです、現在東アフリカのルワンダ滞在中です。

出張が終わったらルワンダについての記事を書こうと思っていますが、今日はナイジェリアについて書きます。

ナイジェリアは私が23才で赴任し1年弱を過ごした思い出深い国であり、その後オックスフォードで出会った親友の母国でもあります。

アフリカ一の経済規模と世界一の人口増加率を誇る未来ある大国。

1960年10月1日の独立から今日でちょうど57年を迎えました。

まだまだ若いこの大国の記念日によせて、私の見たナイジェリアについてお伝えできればと思います。

私がナイジェリアで過ごしたのは2011年、もう6年も前のことです。

ボコハラムは今ほど知られていなかったし、無差別破壊的でもなかった。

人口は日本を抜くかどうかというところで、経済規模もアフリカ第一の南アフリカに取って代わるかどうかというところ。

全てが上向きで、勢いのある国でした。

 

といっても首都アブジャは退屈な場所でした。

沿岸部のラゴスに代わる新首都として80年代に計画的に作られた都市で、1991年12月に首都となりました。

経済の中心は今もラゴスで、アブジャは政治と外交の場所。大邸宅と高級マンションの並ぶ街並みからは、アフリカらしさを微塵も感じることが出来ません。

離任直前には時間があったので市内のマーケットに毎週通ったりして楽しみましたが、1年弱のナイジェリア生活の中での私の一番の楽しみはなんといっても地方出張でした。

援助に関わる人間にとって、援助を必要とする人たちと実際に会い、その人たちの置かれた状況を自分の目で見、その地を歩くということは、その後のキャリアを大きく左右する原体験となりえるものです。

アブジャを離れ一本道を何時間か進むと見えて来る、首都とは対照的な風景。

草地を切り開いただけのでこぼこ道。

首都の瀟洒な町並みからは想像できない質素な家々。

濁った川や池の水を唯一の水源として暮らす人々。

栄養失調でお腹の出た子ども。

 

首都の政治家やラゴスのビジネスマンや欧米のディアスポラが何と言おうとも、ナイジェリアには赤貧の中に暮らす人々がいました。

私が訪れたあらゆる農村で清潔な水は絶対的に不足していたし、当然ながら電気の通っていない地域がほとんどでした。

有数の産油国でありながらその恩恵はごく一握りの富者に独占され、国民の多くは近代化から取り残されている。

ナイジェリアは(アフリカの他の資源国と同じように)腐敗で有名ですが、その深刻さは農村の状況を見れば明らかでした。

対して、私にできることはとても小さかった。

私は井戸を建設したいという市民社会組織やコミュニティ組織の話を聞き、現地視察を行い、私の報告を受けて組織がそれを承認すれば、晴れて井戸が掘られる。

その井戸が何年稼働するかは正直わからない。

援助業界ではおなじみの「井戸管理委員会」を組織して、部品が必要になった時に購入できるように利用者から少額の使用料を徴収するしくみを作り、井戸の修理ができる人材を確保し、修理用道具一式を供与するけれども、結局のところ、井戸の維持管理や使用料の管理は委員会のリーダーシップにかかっている。

持続性にどれだけ疑問が残ろうとも、安全な水源は最低限の生活のために必要なものであるし、そこに井戸は掘られなければならなかった。

それでも、この経験は若い私に援助に対する大きな疑問を抱かせました。

 

この得体のしれない疑問を出発点として、私はアフリカ研究の修士課程に進むこととなり、そこで今は親友と呼ぶナイジェリア出身の青年に出会いました。

彼は私が人生で出会った中で最も頭のいい人間の一人であり、同時に最も暖かい心を持った人間の一人でもあります。

彼に出会えたということだけで、ナイジェリアで私を襲った不遇が帳消しになるくらい、彼は私にとって大きな存在であり、ひとつの心の支えです。

一般に、ナイジェリアは、日本であまりいいイメージを持たれていない国の一つです。

ビザ目当てで日本人女性に言い寄るナイジェリア人男性がいたり、「ナイジェリアからの手紙」と呼ばれる国際的な詐欺の舞台となっていたり、たしかに問題を起こすナイジェリア人は多いです。

実際にナイジェリア人と結婚して現地でビジネスをしている人の話を聞くと、公私とも苦労ばかりで本当に気の毒に思います。

そういう良くないイメージもあってか、あるいは「西アフリカは東アフリカと比べて教育レベルが低い」という”アフリカ界隈”の日本人の間で流布している言説のせいなのか、最近増えている日本企業や若い日本人起業家のアフリカ進出も、たいていはケニア・タンザニア・ウガンダ・ルワンダあたりの東アフリカに集中している印象を受けます。

私自身も近年はケニア、そして今はルワンダと東アフリカばかりに関わっていますが、いつか西アフリカに戻りたいというのが本音です。

ナイジェリアの北部の大都市カノで見た色鮮やかな市場の活気は今も私にとっての「アフリカ」を象徴する光景だし、当時は確かに苦労したかもしれないけれど、少なくとも今は、ナイジェリアの人々のなりふり構わない貪欲さを気持ちの良いものとして受け止めています。

アフリカの他の国の人からも嫌われる国、それがナイジェリア。

でもきっと、一度そこで過ごせば人を惹きつけずにはおかない強烈な印象を残す国。

建設現場のテントで食べた、焼き魚を載せ、オクラスープをかけたジョロフライス(スパイス入りの赤いお米)。

道端で買って食べたスヤ(スパイスがたっぷりついた焼肉)。

アフリカでおいしかったものと聞かれれば、ナイジェリアのものしか頭に浮かびません。

そしてそれは、そこに足を運ばなければ体験できない現地の味です。

 

2011年に私がナイジェリアをどのように見ていたかは正直もう覚えていません。

それでも、ナイジェリアが57才を迎えた今日この日に私が日本の人々に伝えたいと思うのは、色鮮やかで、活気に満ち、なりふり構わず前に進もうとする人々の姿。

アフリカをけん引する大国として、この国がこれからも成長を続け、腐敗などの構造的な問題も少しずつでも解決に向かうことを願ってやみません。

私の親友の存在と、彼と同じように母国に貢献しようとする優秀な若い人材がどんどん育っているという事実は、この国の未来に対して私を楽観的にさせます。

いつか私がもう一度この国の土を踏むとき、この国がより公正で、包摂的で、国際的に名誉ある国になっていることを信じて、ささやかながら独立記念日のお祝いとします。

 

(この記事で使用した写真は全て、筆者が2011年にナイジェリアで撮影したものです。)

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