書評:或る現場からの視点「あやつられる難民ー政府、国連、NGOのはざまで」

/ 8月 26, 2017/ 世界/日本社会情勢, 難民

米川正子著の「あやつられる難民ー政府、国連、NGOのはざまで」を読みました。

Amazonのレビューは好意的な意見が多いようですが、NGOで難民支援に関わった人間として感じたことを文章に残しておきたく、書評(のようなもの)を書くことにします。

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まず最初に断わっておきたいのは、失礼ながら日本語がひどく、大変読みにくいということ。

誤字脱字はもとより主語と述語が呼応していない箇所も散見され、難民や国連、人道支援についての基礎知識がない人が読めば、本来の文意をくみ取るのに苦労すると思います。

そういうわけで残念ながら二度以上読もうとは思えないので、この書評を書いている時点でこの本はもう私の手元にありません(図書館で借りて読んだので)。

こういう理由で、この書評に引用は一切ありませんし、私の記憶と印象、そしてAmazonの他の人のレビューを頼りに書いているので、当然細かい部分は捉えきれていませんが、全体的な感想としてとらえていただければと思います。

 

肝心の内容ですが、著者が実務的に、そして後に研究者として関わったルワンダ難民の話を中心に展開されます。著者はルワンダの隣国コンゴ民主共和国で、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)職員としてルワンダ難民支援に携わっていた時期があるそうです。

1994年のルワンダでの大虐殺は日本でも有名ですが、この時は大量のルワンダ人がコンゴ民主共和国をはじめとする近隣国に移動し、難民となりました。

他方で、ルワンダ難民は1994年の虐殺以前にも相当な数が近隣国に散らばっていたし(ルワンダの現大統領のカガメ氏も、少年期~青年期はウガンダで難民生活を送っていました)、米川氏によると、虐殺が収束して現政権が成立した後には、特に暗殺を恐れた政治難民が増えていると言います。

米川氏も本書の中で認めているとおり、ルワンダ難民は典型的な「難民」というよりはかなり特殊なケースです。特に、昨今ヨーロッパへの流入で世間の耳目を集めている「難民」(安全やよりよい生活を求めて母国を逃れ、何か国もまたいで特にドイツや北欧などの西欧諸国を目指す人々)とは性質が大きく異なります。

こうした意味で、欧州難民危機を契機に難民問題に興味を持った人にとっては、全く新しい世界(つまり、欧州の外で実際に何が起こってどういう経緯で「難民」が発生し、国際社会はどういった支援をしているのか)を実例を持って知ることのできる有益な本と言えるでしょう。

しかし逆に言えば、本書で紹介されている事例は90年代のものが中心なので、この本で語られる事例は今日世間で取り沙汰されている難民危機とは別個のものとして認識し、直接結びつけるのではなく広い意味での背景としてとらえる必要があるかと思います。

本書には「最悪の難民危機 その本質に迫る」とのキャッチフレーズが付され、まるで今日の難民危機の本質を突く内容が書かれているかのような売り込み方がなされていますが、個人的にはかなり誤解を招くふれこみだと思います。

 

本書は難民が「政府、国連、NGO」(いわゆる国際社会)によって利用されていることを告発していますが、これは現実の一側面でしかありません。

元難民支援の実務家として、私は米川氏がいっさい提示しない別の側面を示しておく必要を強く感じました。

私はNGOに所属していた頃に、イラクでのシリア難民支援、南スーダンでの国内避難民支援などにも関わりましたが、最も長く、そして現地責任者としてあらゆる側面に関わったのはケニアでのソマリア難民支援でした。

ソマリア難民がケニア等近隣国に逃れる理由は様々ですが、主要な原因として干ばつが挙げられます。ケニア北東部に1991年に開設されたダダーブ難民キャンプでは、2011年頃にアフリカの角地域で起こった大干ばつの影響で難民が急増し、既存の3つの区画に加えて新たに2つの区画が新設されました。

この際に生まれた大量の難民の避難理由は「母国では飢饉が起きていて生活していけない」というものですので、時期を問わず主に「対立勢力に殺される」という類の現実的な恐怖で母国を逃れたルワンダ難民とは異質と言えるでしょう。

米川氏は難民キャンプを「強制収容所」になぞらえて徹底的に批判しますが、現実には、「キャンプに行けば食料も支給され、学校やクリニックも整備されている」という事実が、難民を自らキャンプに向かわせる理由になっていることも多々あります。

たとえば、昨年マララ・ユスフザイ(最年少でノーベル平和賞を受賞したパキスタン出身の女性)がダダーブ難民キャンプを訪問した際、家族と共にソマリアに帰還したものの、ソマリアでは女子教育が普及していないために単身ダダーブ難民キャンプに帰ったという少女の話を引き合いに出し、教育の重要性を訴えました(UNHCR Kenya: Malala Celebrates her 19th Birthday with Refugees in Dadaab)。

さらに、ダダーブ難民キャンプではソマリ系のケニア人が難民として登録していたケースも多くありました(関係者向けのUNHCRの報告書で、たしか2万件くらいとされていたように記憶しています)。当然、ケニア人なので難民として登録する資格はないのですが、支援物資を目当てに不正に登録を行う人々がいるのです。

米川氏は難民が利用「されている」面を繰り返し強調しますが、同じように難民も、そして避難先の地域住民らも(つまり偶然そういう境遇に陥った一般の人々も)、人道支援を自主的に、時に不正に利用「する」ことがあるのだということを、事実の別の側面として我々は知っておく必要があると思います。

 

上述のように、この本はかなり一面的ではありますが、「或る現場からの視点」を示す実務家の記録としては有用だと思います。

しかしながら、国際社会、とくに米国を中心とする大国による様々な形の干渉を詳らかにする過程で、Amazonのレビューにもあるように、見ようによってはある種の陰謀論を吹聴しているようにも読めます。

たとえば、米川氏はルワンダの現政権に対して徹頭徹尾批判的で、1994年の虐殺の定説(過激派のフツが大量のツチと穏健派のフツを殺戮した)でさえも、アメリカをはじめとする国際社会の強力な支持を受けたルワンダ現政権の意図的な情報操作として否定しているように読めます。定説に異を唱える人々の説を引用してはいますが、列挙されている情報があまりにもそちらの視点からのものに偏っており、結果的にただただ一方的な持論を聞かされているような感覚になります。

文中で引用している「難民」からの衝撃的な聞き取り内容についても、個人の調査で明らかになったものなので根拠が示せないのは仕方ないでしょうが、聞いた言葉をその言葉通りに100%信用するというのが、果たして研究者として正しい姿勢なのかは疑問です。

前述のとおり、難民たちも普通の人間ですから、自らに開かれた機会をうまく利用することのできる行為主体です。

彼らから見て「国際社会」に所属する外国人研究者が目の前に現れたときに、反対勢力を批判するために自分に都合のいい話だけを披露する、ということは容易に想像できます。こういった危険性について一言のことわりもなく、自説を支えるエピソードをこれ見よがしに並べ立てている点は、本書の信憑性を損なう大きな弱点であるように思います。

 

私は米川氏の本を読むのは初めてなので、他の本ではもしかしたら本書で私が感じた違和感や欠点は克服されているのかもしれません。そして、先に述べたようにこの本は「或る現場からの視点」を示す実務家の記録としては参考になるものだと思います。

ただしそれはあくまでも「或る視点(a perspective)」であって、この視点だけで難民問題を正しく理解することは決してできない、かなり限られた一面的な視点であるということを読み手は重々認識していなければいけません。すべての実務家や研究者がそれぞれの視点を持ちうるわけですから、米川氏の視点は、文字通り無数のものの中の一つに過ぎません。

そんな些細なものであっても、こうして一冊の本になり多くの人の目に触れ、好意的な意見を受けられるのは、日本で難民についての知識があまりにも不足しているからでもあるでしょうし、元国連職員という曖昧なのにやたら立派な著者の肩書のおかげでもあるのでしょう。

この本はUNHCR職員だった頃の反省も込めて書いたということですが、米川氏は難民支援の様々な側面を取り出しては毎度毎度国際社会を批判することに注力しています。

反省していることがあるのであればなおさら、一方的な批判にとどまらず改善や改革に向けた具体的な提案を示して欲しかったと私は思います。

たとえば、本書で米川氏は難民の帰還に向けた協議のありようを紹介し、その協議が政府とUNHCRによって行われ肝心の難民の声が反映されていないとして、難民支援に難民自身が関与できていないことを強く批判していますが、それでは、数多の難民の声を掬い上げるにはどういう仕組みが考えられるのか?

当然ながら難民の間にも権力構造があり利害の対立がありますので、代表者を選定するにしても一筋縄ではいきません。

 

こうした複雑さを示すために、難民社会の構造について私の経験した実話を紹介しましょう。

ダダーブ難民キャンプの事業では、現場での調整役に有期契約で難民を雇っていましたが、十分な理由があってその難民との契約を一旦打ち切ると通告したことがあります。

すると翌日、キャンプ地域の現地行政(日本でいうと市役所くらいのイメージ)が介入し、現地の正規職員を呼び出して説明を求めた上で、契約打ち切りの撤回を迫られました。これは常套手段ですが、「撤回しなければ今後事業に協力しない」という脅しをかけてくるので、やむを得ずすぐに契約を再開したと記憶しています。

この事例から、難民は難民同士のみならず、現地政府とも通じて利害関係を築いている場合がある、ということがわかります。

たとえば帰還に向けた協議に参加する難民代表を選ぶことになったら、帰還を阻止してキャンプ(とキャンプがもたらす経済利益)を維持したい現地政府は、彼らの息のかかった難民が選ばれるように画策しあらゆる方法でその実現を図るでしょう。

支援の枠組みを変えようとするならば、現地政府、難民出身国政府、各ドナー国とUNHCR等異なる主体の利害がからむわけですから、交渉が膠着状態に陥り結果的に何も変えられない、という見込みは否が応でも大きくなります。

難民支援の構造を批判するのは簡単ですが、実現可能な改善策を探すのは至って困難なのです。米川氏は実務家として、さらに研究者として難民に関わっているのだから、その困難な部分にいくらかでも踏み込んで欲しかったと思います。

 

視点が一面的であること、信憑性に疑問符がつくこと、そして改善に向けた提案が不在なことは先に書いた通りですが、本書の根本的な、そして一番の問題は難民のとらえ方であると思います。

Amazonのレビューではこの本を「難民の視点から書かれた本」と称賛している人もいましたが、それはあまりにも美しい誤解だと思います。

「あやつられる難民」というタイトルに強く表れているように、米川氏は難民を「あやつられる」「利用(悪用)される」受け身の存在として描き、難民自身の主体性をまるで考慮に入れていません。

難民というカテゴリーに一緒くたにしてしまうと見えなくなってしまいますが、難民と呼ばれる人々も元々は商人だったり、技師だったり、教師だったり、政治家だったり地域の有力者だったりと、各々が技能や思考、性向などあらゆる人間的な要素を持った個人なのです。

昨年の世界難民の日に同じようなテーマで記事を書いたので、ここにリンクを貼っておきます。⇒世界難民の日に寄せて -難民とは何者か-

この記事で述べているように、難民は私たちと全く同じように思考し行動する個人です。

 

それなのに、米川氏は難民を「政府、国連、NGOのはざまで」「あやつられる」存在として強調し、難民支援の様々な側面を取り出しては毎度毎度国際社会を批判することにばかり終始しています。

自らを「草の根」タイプの人間と呼びながらも、この本は難民の多様性を示すことも、難民の視点や切実な思いを日本の読者に発信することにも成功していません。

この本で、米川氏は結果的に(本来の意図はどうあれ)、「国際社会」の構造的な欠陥を告発するために、皮肉にも「難民」をキャッチーなキーワードとして利用しているように見えます。

それは、米川氏自身がこの本で告発しようとしていた悪しき構造の再現に他なりません。

 

あまり好意的な書評にはなりませんでしたが、それでも、この本の最後の方で紹介されていた写真(ダダーブ難民キャンプで撮影されたというもの)は、私にとって非常に印象的でした。

それは難民が仮設住宅の壁かどこかに書いた、UNHCRのロゴを皮肉った絵の写真です。

UNHCRのロゴは、真ん中に人がいます。

この絵では、その人が荷物をまとめて出て行ってしまっているのです。

主役であるはずの難民不在の難民支援。

この絵はUNHCR(ひいてはそれが代表する国際社会や人道支援枠組み)への痛烈な批判であり、この本で米川氏が暴こうとした悪しき構造を、難民自身がその手で風刺したものです。

或る難民の切実な思いを象徴するこの絵は、この本で紹介されたどんなエピソードよりもはるかに雄弁で、強力な問いを投げかけるものでした。

 

(この記事で使用した写真は、2016年9月に筆者がケニアのダダーブで撮影したものです。)

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